27 雨ニモマケズ

■みどころ
 自らの詩作を「心象スケッチ」と称したように、賢治は手帳を携帯しその思いを書き留めていました。その最後の手帳が賢治の死後に賢治の革トランクのポケットから発見され、そこに1931年11月3日に書いたとみられる「雨ニモマケズ」のメモが記されています。

 このメモを賢治がどのような気持ちで記したのでしょうか。余命幾ばくもないと諦観し「自分はこう生きたかった」と遺稿のような思いのようにも見えるのは、メモの最後に「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の曼荼羅が書かれ、仏の世界に収束していく印象があるからなのかもしれません。しかし、賢治が亡くなったのはこの後1年10か月余りたった1933年9月21日でその間賢治は病が快方に向かうことを信じつつ作品の発表や新たな詩作のペンを取ったり、多くの人と面会し書簡を交わすなど、病と闘いつつ精力的な日々を送っています。自らを律して、これからこのように生きていくのだという固い決意を感じることができるように思えます。
 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の冒頭のフレーズが印象的なことから、どんな逆境にも耐えていく力強い人間になることを願った詩のように受け取りがちですが、これ自体は「丈夫ナカラダヲモチ」の装飾語にすぎません。むしろこの詩全体に流れる「自分はこう生きていく」という確固とした信念の力強いトーンが、逆境にある人を含めて生きづらさを感ずる人々の心に響き、賢治の詩の代表作とも言われるほど受け容れられているのでしょう。
 賢治がこうありたいと願った生き方は後半部分の「行ツテ・・・シ」と「デクノボートヨバレ」に表れているように思います。それらは法華経にある「菩薩」の精神を体現したもので、困っている人がいたら自らがまず行動して助けること、そして人に何と言われようとその人を敬い続けることを常に実践していくことです。こうした姿は、「虔十公園林」の虔十などの賢治作品にしばしば見ることができます。